今でこそ馬島から本浦近江までも、車でサアーと行けるけど、昔は細折(ほそおり)から登り、昼間でも暗い山道を一時間余りも歩いて行くしかなかった。その道の途中には、死んだ赤子の声がせるちゅう赤子岩やら、首吊りの話が有ったりせて、何かに追われるような心地で歩いたもんじゃった。
その内、世が変わって、海端を通って刈尾あたりまで行ける道が出来るという。工事が始まって、山を削り石垣をついて道は延びていった。この工事には、石船で、ブルドーザーやら、型枠に使う木材やら、発破に使うダイナマイトやらが運び込まれた。外から、監督やら大工やら石屋やらも来て、飯場が建てられ、島のカアチャンらあも、雇われて働きに出た。
初めての土方仕事は、たいがいにゃあせんなかったが、慣れるに従い、町の男らあにゃあ負けん位の仕事をこなすようになった。監督らあとも打ち解けて、納得のいかん事には、互角に張り合うたりもした。とはいえ、昔の仕事は大方が手仕事。潮間に石船が運んで来た石を、潮が変わらん内に、幅三十センチ位の歩み板を、モッコ(※1)に入れた石を担いで、揺れながら運ぶ。危のうはあるし、時間にゃあ追われるし、しょう
しょうエラカッタちゅうもんじゃあなあ。
ほいて石を持って行きゃあ、石屋さぁが「これじゃああるまぁが」ちゅうて叱る。ワシらあは、石屋でもなあのに、どこにどの石を置くかじゃあなんじゃあ、分かりゃあせまいちゅうて、腹が立ちよったが、慣れちゅうのは、ひどいもので、その内にあそこにはこの石ちゅうのが、判り始めたけんね。法を切ったり、コンクリを打つ前にグリ(※2)を詰めたりも、文句ひとつも言わせん位にゃあなったけんね。土方ちゅうても勉強になった事はいっぱいあったでね。
「仕事はせてみい、人には添うてみい」とは、よう言うたもんじゃね。仕事をせることで、たいがい、ええとの人とも知り合うたし、付き合うまでは知らんかった、人となりも知ったけんね。
まだ、子供が小まぁ者は、子供も連れて働きに出た。
ええ日よりならええが、冬の寒い風の日じゃあなんじゃあ、母親も子供が可愛そうで泣くようなじゃった。
ええものは買うてやれんのじゃから、薄いジャンバーに毛糸で編んだマフラーとミトンをつけらせて、昼休みまて、遊ばせておく。
そねえな時に、優しい監督が、危のうない所に焚き火をしてくれて、チョコレートをくれたり、時には子供達がよう辛坊してくれるからと、親子何組かを常磐公園に連れて行ってくれたりと、人の情けの有り難さも身に染みた。
この頃巡航船であの道を見る度に、島の道はあの頃のカアチャンと子供らあの汗と涙で、できちょるんじゃと思うんちゃあね。
以上、島のカアチャンの昔語り。
※1「モッコ」
縄や竹などを網状に編んだ運搬用具
※2「グリ」
基礎に用いる割栗石
(H30.7)
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